疑問にきちきち答えてくれる一冊「なぜ日本人は神社にもお寺にも行くのか」

だいたいこの手の本は星三つになりますね。
(星三つの基準は、“興味があるなら読んだらいいことあるかも”ってレベル)

だって、興味のない人に勧めても面白く読んでもらえないものね、この手の本って。

 

 

 

 

寺社仏閣が好きです(唐突)。
 
それは、読書の原体験に荻原規子さんという圧倒的プレイヤーが居たからだと思う。
それと、たつみや章さんの「神と人三部作」(※)を読んだのも大きかった、と思うなあ。
(※ ぼくの稲荷山・戦記夜の神話水の伝説の三冊です。やや思想が強いので注意)
荻原作品によって芽吹いた性癖がみるみる育った、というか…
 

そんな訳で、まあ当然のように朱印も集めるし、
旅行ってことになれば息をするように寺社仏閣を行程に組み込もうとする大人に育ちました。

ひとり旅ってことで、
熊野・伊勢・京都・奈良・十津川村(玉置神社)・戸隠・羽黒山・平泉・高野山にも行きました。
(改めて書き出してみると、結構色んなところに行ってるな…)
 

でも、そんなわたしですが、この「なぜ日本人は神社にもお寺にも行くのか」という疑問には、
うまく答えられる気がしないのです。自分は結局、無宗教なんだとも思うし。
 

どうせ行くならもっと知りたいな、という単純な動機で、
読みやすそうなこの本から着手することに。
 
 

ざっくりこんな内容

 

だいたいこんな内容(あっ同じようなこと2回言った)

あなたが初詣に行っているのは、神社、お寺、どっち?
 
日本人は無宗教と言われるが、日常的に神社にもお寺にも行っている。
しかし、この違いを明確に答えられる人はどれくらいいるだろうか?
 
神社は神道、お寺は仏教と、とりあえずは答えることはできる。
でも、お寺の境内に神社があったり、神社の中にお寺があるというケースは多々ある。
神社なのに鳥居がなかったり、逆にお寺なのに鳥居があることもある。
 
神社とお寺の不思議を宗教学者、島田裕巳が解き明かす!

 
神社とお寺がどう違うのか(それはもちろん、上に書いてある通り神道と仏教の違いだけども)、
それじゃ神道と仏教はどう違うのか、
神道の歴史について、仏教の歴史について、
そして二つを語る上では外せない「神仏習合」(※)について。

(※)学校で習った気がするあれです。神道と仏教が一つの信仰体系として再構成(習合)された宗教現象のことです。
あとあれね、セットで「廃仏棄釈」も習ったよね。
 

平易な言葉で書かれているので、スラスラ読めます。
 

へえ〜神社とお寺って、足したら全国に15万社もあるんだ!とか。
それに対して、コンビニって5万6,000軒しかないんだなとか。
(参照:httpss://todo-ran.com/t/kiji/10327
(いや、十分すごいのか)
ちなみに郵便局の数は2万4,000軒とのこと。
(参照:httpss://www.post.japanpost.jp/notification/storeinformation/index02.html
 
 



特に印象に残ったこと

読んでて一番すーっと納得できたのは、
 

  • 神社は神様のための場所、だから境内に人の住むところは無い。みんな通い。
  • お寺は人のための場所。お坊さんが修行するための場所。大学みたいな趣もあって、学問のための場所でもあった。
  • 仏教は理論があって、教義があって、体系だったもの。だから仏像も沢山ある。現代のお寺は、そんな文化財を納め、拝観するための場所。
  • 神道は、教義もないし、開祖もいないし、宗祖(教えを広めた人)もいない。だから仏教が入ってきたときに、仏教の理論武装に勝てなくて、仏教優位の教え(本地垂迹…日本の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現であるとする考え)が浸透した。現代の神社は、清浄な空気を味わうための場所。

 
この辺でした。
 

あーなるほど、と。確かにそうかも、と。
自分の感覚と一致するところが多かったように思います。
 

 

超個人的感想

ここから先は個人の感想でしかなくて、自分のための備忘録チックなのですが…
 
これまで自分が、どちらかというと仏教やお寺よりも、神道や神社に
魅力を感じてきた理由も、自分の中で整理できたように思いました。
 

このあいだの夏休みに玉置神社に参拝した時、

そして少女は世界遺産となるー荻原規子「RDG」を一気読みした(ロケ地巡り付き)


(こちらの記事参照)

参道ですれ違ったおばあさまとこんな会話をしました。
 

   おばば「どこから来はったの?」
   はつね「東京です」
   おばば「あら遠くから〜、ご利益たくさんもらって帰ってね〜」
   はつね「はーい」
 

書き起こすと相当なんてことない会話ですが、
ふとわたしのなかで、疑問が沸き立ちました。
 

「あれ、そういやご利益とかって気にしたこと、ないな…?」
 

いつも参拝するときに、望みはあれこれ言ったりしますが、
どちらかと言うと所信表明的な、「わたしも頑張るんでひとつよろしく」
みたいなことをモニョモニョ念じるわけなので、
「ご利益、来いよ!」みたいな参拝って、そういえばしてないな、と気づいたわけです。
なので当然、「せっかく参拝したのに、ご利益ないじゃん」みたいなことも、まるで考えないわけです。
 

(どれだけの人が、真剣にご利益を願って参拝するのか、
そもそもそんな意識は薄まってきてるのじゃないかと、
感覚的には思うわけですが。それはさておき。)
 

それじゃわたし、どうして寺社仏閣に行くのかしらん?
と、ふと考えたわけです。
 

そして、この本を読んで、仏教と神道の在り方に触れた結果、
ぼんやりこんな風に思ったのでした。
 
 
 

自分が救われたいから行くのでは無い、ご利益が欲しくて行くのでも無い。
 
千年前も、千年後も、同じように祈りを捧げる人がいて、
この空間は同じように保たれてきたし、保たれ続けるのだろうと思えること。
 
その変わらなさに、人の強さを感じられること。
そして、一方では、そのように祈らずにはいられないという人の弱さも感じられること。
 
神さまはいないのかもしれないけど、
少なくともわたしたちが望むようにはいないのだろうけど、
多くの祈りが込められた場所では、何かがあってもいいはずだと思えること。
 
そんなことを確かめたくて、わたしは神社に行くのだと。
 
 
 

世界の宗教は、恐らく、
「こうすれば救われますよ」
「だからこれを信じなさい」
という理屈が根底にあるのだと思っていて、
それを否定なんてしないけど、
そんな教義もない神道は、とってもプリミティブで、
だからこそ祈りの本質があるんだと思う。
 
自然災害に対して、病気や死に対して、人の力が及ばないそれらを目の当たりにして、
なんの対処法も持っていないとしたら、やっぱりわたしも祈るはずだから。
 
どうか静まってくださいと、悪いことがこれ以上起きないようにと。
救われたい、という自分の欲じゃなくて、
どうか何事もありませんようにという、愚直で懸命な願い。
 
 
それってとっても自然なことだし、
きっと始めはそれ以上でも以下でも無かったんだろうなあ、って。
そんな風に、思い至ることができて、共感することができる。
とても人間らしい行為だなと、いとしく思ったりもする。
 
 
あとはやっぱり、単純に気持ちがいい。
緑と、風と、綺麗な空気と。
「ここにいくらでも居られるわ」と、
「もっとここに居たい、ずっと居たい」と
感じられる場所に出くわすことがあって、
そうすると心がうきうきする。そう感じられることが嬉しくて。
 
うん、やっぱり神社が好きだなあ。お寺もいいけどね。
 
 

でもまあ、いま「宗教ですか?神道です」なんて言うと、あからさまに新興宗教っぽいので、
やっぱりわたしは無宗教でいたいと思う。クリスマスも楽しむし、神社にも、お寺にも行く。
 
 

神社の清浄さを慕わしく思うから、仏像の厳かさに胸を打たれるから、
やっぱりもっともっと知りたいと思うなあ。
こちらはそんな感じです(ふんわりさせて終わらせる)。