新刊に備えて「麦の海に沈む果実」を再読した

5月に恩田陸さんが「薔薇のなかの蛇」を発売します(唐突)

別記事でお伝えする予定なので詳細は置いておきますが、シリーズ前作にあたる「麦の海に沈む果実」を久しぶりに再読して、やっぱり大好き!!!!!!と再認識したので、全力でおすすめするための記事を書くことにしました。

(好きであればあるほど文章が長くなってしまう癖があるので、時間がある時に読んでいただくことをおすすめします…)

さて、作品の魅力をどうやって伝えようかとしばらく悩み、やっぱり箇条書きが分かりやすいなという結論に至りました。以下、わたしが思う本作の推しポイントです。

作品の魅力は4つ

  • 釣り針がでかすぎる奇妙な舞台
  • 不穏すぎる挿絵
  • 思春期に刺さる癖の強いキャラクター
  • 即座に関連作品に手が伸びる引きの強さ

(魅力を説明するのに、舞台と人物ばっかり語ってしまう癖をやめたい)(語るけど)

その1:釣り針がでかすぎる奇妙な舞台

舞台設定まずこれが強い。

湿原の中に佇む全寮制の私立中高一貫校なのですが、とんでもなく奇妙なのが、とんでもなく良いのです。

舞台は北海道ですが(釧路湿原かな?)、学園の中は外国のような雰囲気が漂います。煉瓦造りだったり、薔薇の生垣で作られた迷路があったり、尖塔があったり、朽ちた温室があったり…シックでクラシカルな、英国パブリック・スクールのような光景を思い浮かべる方が多いと思います。いいなあ素敵だなあ。

奇妙だと感じる要因はいくつもあるですが、例えば、学園の敷地は広大なのにも関わらず、地図は一切用意されておらず、道は曲がりくねり、全体を生徒に見通させない作りになっているところ。

主人公の理瀬は、学園に入学してすぐに、微かな違和感を覚えます。

 それにしても、こうして歩いているとなんだかイライラするのはなぜだろう。 理瀬は回廊を歩きながら辺りをキョロキョロ見回した。やがて、その理由が分かった。方向感覚をつかみにくいのである。道は必ず折れ曲がり、行き先が一目で見渡せるところがない。変なところに壁や大きな木や茂みがあって、目隠しが多い。そのせいか、なんとなく遠回りさせられているような感じがするのだ。 そう言えば、まだここに来てから敷地内の見取り図というものを見たことがないわ。道のあちこちに行き先と矢印は書いてあるけど。

P85より

校長先生は男性ですが女装もします。日によって変えるみたい。他の教師は(もちろん存在するだろうけれど)ほぼ登場しません。

「あの人は、その日の気分で男になったり女になったりするの。男でいる時もかっこいいわよ。あれは単にあの人の趣味。物事に対して先入観を持たない、柔軟な人よ。仕事は出来るし、ものすごく頭のいい人。みんなに尊敬されているわ。もしかして両性具有なのかもしれない。それがふさわしい人ね。どことなく完結した、パーフェクトな感じがするでしょう?」

P48より

勉強したいものは望むままに与えられ、図書館の蔵書はとびきり豊富。スポーツや芸術に秀でた生徒、あるいは天才と呼ばれるような優秀な生徒たちは、それぞれの分野に専念することも許されています。
学園行事にも力を入れていて、五月祭では生徒たちがワルツを踊るダンス・パーティーがあったり、薔薇園でのガーデン・パーティが開かれたり…校長が主催するお茶会なんてものもあります。これもまた、外国風で素敵ですね。

 つかのま静かになり、静かにワルツが流れ出した。同時に扉が大きく開かれて、音がどっと外に流れ出した。音に誘いこまれるように、どんどん生徒たちが入っていく。 中に入るためにぞろぞろ前に進みながら、耳を澄ましていたヨハンはますます興奮してきたらしく、紅潮した顔で理瀬を見た。「うまい。うまいよ、このオーケストラ。プロじゃないか。たった二時間のために、まるまる一つのオーケストラを連れてきたんだ。信じられない。なんて贅沢なんだ」

P230より

すごい学校ですね。本の感想を書いているのだか、学園のパンフレットを書こうとしているのだか、分からなくなってきました。こんな学校があったら通ってみたいと、中高生なら誰もが憧れるでしょうね。

けれど、一見夢のような場所にも思えるこの学園は、とびきり奇妙で、不穏な場所でもあるのです。このギャップが推しポイント。

「(前略)そりゃあ、見た目には恵まれているし、たいていのことはやらせてもらえるわ。あんたが胡弓を習いたいと言ったら、明日にでも中国から一流の先生を空輸してくれる。でもね、あんたもここに来た時に感じたでしょう?ここは変だわ。どこかが歪んでる。何かが間違った世界なのよ。あたしたちはていのいい囚人なんだから」

P68より

てんこ盛りすぎるし、読者たちを引きつけてやろうという釣り針がでかすぎる。物語が生まれるしかないじゃないですか、こんな学校があったとしたら!釣られるしかないですよね。

その2:不穏すぎる挿絵

三月シリーズ、あるいは理瀬シリーズの特徴です。北見隆さんという方が挿画を担当されているようです。もうね、不穏。不穏が過ぎる。最高。お気に入りの挿絵をいくつか紹介したいと思います。

右側の女性に注目
カップから手が…不穏すぎる
危ないッッ!
ヒィ〜〜!1章の女性じゃな〜い!?


その3:思春期に刺さる癖の強いキャラクター

性癖に刺さる、という言い方はあまり好みでは無いのですが、でもそうとしか言いようのない感じです。誰かしらがどこかしらに刺さります。

内向的な美少女、鋭い目をした不器用な優しさを持つ少年、天才眼鏡、男勝りな役者志望美少女、天使の微笑みを持つ少年…、みんな容姿端麗なのが楽しいです。これぞフィクションの醍醐味!という感じで。

以下、登場人物紹介をしてみました。

※核心的なネタバレは避けていますが、未読の方はご注意ください。
※学年は中1が一年生、高3が六年生です。理瀬が入学した翌日の新学期で記載しています。

<ファミリー>

水野理瀬(みずのりせ)
三月から学期が始まる学園に、2月28日に転入してきた少女。14歳。理瀬の視点から物語が語られるため、容姿に対する直接的な描写は少ないが、周囲の発言から正統派美少女ということが窺われる。自分に自信がなく、内向的。RDGの泉水子ちゃんにちょっと通じるところがあるよね。

黎二(れいじ)
「きっと、ずっと前にも俺みたいなのがいて、やっぱりこんなふうに窓にふてくされて座って、同じ景色を見てたんだろうな」
肩まで伸びたぼさぼさの髪、触れれば切れそうな挑戦的なまなざし、整った顔とあるので美形設定ですやったね。読む人の心をギュッと掴んでくる反抗期真っ只中少年。この手のキャラクターに珍しく、厨二病くさくないのが好感がもてる(ちょっと詩は朗読してしまうけども)、ただ反抗期なだけ。何事にも歯向いたいお年頃。理瀬が嶺二について語るところが好き。「これが本来の黎二だ。優しく、心遣いが濃やかで、育ちの良い黎二」

聖(ひじり)
「こういうことだ、理瀬。怖いかい?これが、我らがファミリーの呪われた歴史だよ。何かご質問は?」
ファミリーのリーダーを務める六年生。銀縁メガネ。学園の歴史上2番目のIQを持つ(1番は校長)笑っちゃうくらいの天才児。M工科大学への入学が決まっているらしい。マサチューセッツじゃんそんなの。頭の良さを遺憾無く発揮して探偵めいたことをしたり、理瀬の正体を探ったり。それなのに、物語の終盤は割と置いてけぼりで、一人だけ蚊帳の外っぽい感じがちょっと不憫よね。

光湖(みつこ)
亜麻色の髪に茶色い瞳、混血児のようだが詳細は明らかではない。校長のシンパ(シンパって死語かなあ)。ダンスのことになると厳しい指導が入るが、理瀬曰く指導力は無いとのこと。

寛(ひろし)
五年生。おおらかな人柄と包容力を感じさせる大柄な少年。指揮者志望で音大入学に向けて準備中。音楽つながりでヨハンと意気投合する。

俊一(しゅんいち)と薫(かおる)
俊一は三年生、薫は二年生。二人とも茶色っぽい髪、屈託がなく明るいとされている。プロテニスプレーヤーをめざしているので作中では不在がち。陽キャは御呼びでないってことかしら。一応薫には高所恐怖症設定があり、功くん失踪事件の証言者でもある。

麗子(れいこ)
「あたしのれいじ」
ファミリーに所属していた少女。理瀬が入学する前の年のクリスマス・パーティーを最後に突如姿を消す。

功(いさお)
ファミリーに所属していた少年。親と音信不通だったが、父親の危篤の知らせが入り帰宅したと説明されているが、実際には理瀬が入学する前の年の夏に失踪されたと言われている。作中で生死は明言されていないが、(理瀬の降霊を信じるなら)何者かによって絞殺されている。

<それ以外>

校長
「そうそう、あたしは自分勝手な子と向上心のない子が嫌いなの。よく覚えておくのよ」
作中、本名は明かされない。生徒たちの語るところによれば、年齢は40代前半、くっきりした端正な顔立ち。日によって男装だったり女装だったりする。頭も良く、ビジネスにも精通する、いわゆるスーパーマン的に語られる。結婚はしていないが子どもの数が半端ではないらしい。そりゃあ、そんなに優秀な遺伝子だったら欲しがる人は多いでしょうね。

憂理(ゆうり)
「あら失礼。あたしは憂理よ。ことわりを憂う。いい名前でしょ。あんたと同じ字を持ってるわよ。よろしくね、理瀬」
背が高くスタイルのいい美少女。短い髪、きめの細かい肌、形のいい眉と赤い唇、きらきらした意志の強さを表す瞳。理瀬曰く”アイドル歌手といっても通りそうな華やかさ”。性格は男勝りだが、聖曰く”完全に女”。役者志望で、度々学園行事で演劇を行う。

ヨハン
「自分の美しさに傷つくデリカシーのない女の子って、僕にとってはきれいな女の子じゃない」
色白で茶色い目、栗色というよりももっと色の薄い柔らかそうな髪。わたしは巻き毛だと信じている。日本語がネイティブ並みに堪能(作中、誰もヨハンの日本語に触れないことが、却ってペラペラ具合を助長させていると思う)なのは何故だろう。実は母親が日本人だったりするのかな。

修司(しゅうじ)
体格のいい少年、校長の親衛隊。スポーツマンタイプの精悍な顔。理瀬たちがお茶会に招かれたその夜に、何者かによってナイフで刺され殺される。

亜沙美(あさみ)
校長の親衛隊の一人で、理瀬をいじめていた女子グループの一人。嵐の夜に尖塔から何者かに突き落とされて死亡。仲良しグループの女の子たちからも特に悼まれている様子がなくてなかなか不憫な子である。

麻理衣(まりい)
「じゃあ、約束よ。春いちばんの野いちごをあたしに採ってくれるって」
長いふわふわの髪の一年生。環境に馴染めず精神のバランスを崩している。ガーデン・パーティの日に転倒した際に頭を打ち死亡。

時間があったら、相関図も作りたいな〜。

その4:即座に関連作品に手が伸びる引きの強さ

理瀬シリーズの全体像については別記事に詳細を譲りますが(ちょっと言ってみたかった譲って表現)、これからお読みになる方には、「麦の海に沈む果実」→「三月は深き紅の淵を」→(「黒と茶の幻想」※お好みで)→「黄昏の百合の骨」の順番に読んでください、とだけお伝えさせていただきます。

なんでかは読めば分かります。作品を最後まで読み通すくらい気に入ったなら、読み終わったと同時に次の作品が読みたくなる、数々の仕掛けが施されています。この仕掛けに、ファンはもう何十年も踊らされているところがあると思います。

ネタバレ考察:三月は深き紅の淵をとの関連を考える

さて、以降はネタバレのオンパレードなので、関連作品を読破した方だけ読んでくださいね。

読むたびに幻惑される関連作品との関わりを、この機会にうんうん唸りながら考えてみました。

本作における<三月は深き紅の淵を>

まずは、前提条件の整理から。

校長曰く:父親の友人が書いた本で、自費出版の造りに素人っぽさが残るもの。赤い背表紙の地味な本。三月から一年を始める不思議な学園王国の物語で、世俗とは無縁の閉じられた贅沢な環境で、世間のカリキュラムに縛られない世界が描かれているとのこと。校長の父はその小説の世界を自分で再現しようとして、この学園を設立した、学園の由来にもなっている本とのこと。ただし、何者かによって持ち去られてしまい現存していない。

理瀬が見つけた本:学園で過ごす生徒の日記。退屈らしく、後半は斜め読みが精一杯…とのこと。

※ネタバレ注意※

理瀬が見つけた「三月」は。かつて校長が書いていた日記。麗子が所持しており、理瀬の部屋(そして元麗子の部屋)に隠してあった。(そう思うと、理瀬は校長の書いた日記を”退屈”と評しているのが笑える。歴代1位のIQなのに!)そして理瀬も物語の最後に、自分なりの「三月」を執筆する決意を固めています。

(前略)私はそっくりな表紙の本を手製で拵えた。中のページはまだほとんどが白い。けれど、いつの日か、私の築き上げる新たな世界をこの中に封じ込めるのだ。その日まで、やることはたくさんある。

P490より

…ということは、「麦の海に沈む果実」という作品自体が、理瀬が後に執筆した「三月は深き紅の淵を」の一部なのかもしれないですね。学園の物語を記した章立ての一つなのかも。

終章までたどり着いてから序章を読み返すと、実は序章の時点で、その伏線が張られていたいたことに気づきます

そもそも物語の語り出しからして、「これは、私が古い革のトランクを取り戻すまでの物語である」なのだもの。トランク=冒頭で置き引きされたもの、と印象付けられていたけれど、読み終わってみると、二年前に祖父に取り上げられたトランクのことを指していたのですね。序章の意味ありげな語りも、終章を迎えた後の理瀬の語りだったと思うと、納得です。

実在する「三月は深き紅の淵を」との関係性は?

麦海自体が作中作(理瀬が執筆した「三月は深き紅の淵を」だった説)だったと仮定した場合、わたしたちが手にして読むことができる、恩田陸さんが執筆した「三月は深き紅の淵を」と、「麦の海に沈む果実」とは、どういう関係性なのでしょう。

※この先、作品名を全部書くと長いので、「麦の海に沈む果実」は麦海、「三月は深き紅の淵を」は三月、「黒と茶の幻想」は黒茶と記載します。
※「黒と茶の幻想」についても考えたいのですが、数年前に読んだきりなので置いておきます。確か憂理について語られる時に、理瀬シリーズとの関わりが…あったような…?新刊前に読み返したいと思っているので、読んだらまた更新しますね。

わたしが考えるに、手塚治虫先生よろしくスター・システムなのではないかと。非常に印象に残るタイトルを二つの作品の中で並行して用いることで、二作品に関連を持たせる仕掛けだったのではないでしょうか。

スター・システム

(前略)漫画などで、同一の作家が同じ絵柄のキャラクターをあたかも俳優のように扱い、異なる作品中に様々な役柄で登場させるような表現スタイルも、スター・システムと呼ぶようになった。日本の漫画分野で初めてこの手法を用いたのは手塚治虫であり、彼が複数の作品のなかで、自らの友人や友人の祖父、さらには実の妹が描いたキャラクターを登場させたことに始まるとされている。
つまり、手塚治虫作品の中で同じ特徴を持った人物が色んな作品に当たり前な顔をして登場する、あれのこと。
こちらのサイト、作りも夢があってとっても素敵。https://tezukaosamu.net/jp/character/star_system.html
(他のキャラクターリストでも、徹底して”演技”や”出演”という言葉が使われていて、面白いです)

本当は麦海も三月の入れ子構造だった方が面白いのですが、そうすると理瀬シリーズがすべて入れ子の内側ということになってしまい、それはそれで微妙だなと思うのです。

どういうことか、以下で書き綴ってみます。(考えたことが伝わるか不安)

※ここから先、「三月は深き紅の淵を」のネタバレを含みます!注意!

<麦海と三月が入れ子構造だった場合で考える>

以下の2つのパターンが考えられると思います。

①麦海も三月の”内側”という可能性はあるでしょうか。
麦海の解説で(無粋にも)解説があった通り、三月は”内側”と”外側”の入れ子構造になっています。その中で、麦海と強い関連があるのは、”外側”の第四章「回転木馬」。「回転木馬」では、三月の書き手自身が、まさに「回転木馬」の書き出しをどうしようかと悪戦苦闘している様子が、書き手のつぶやきとともに流れていきます。書き手は書き出しを何パターンも書いてはあれこれ考えたり、出雲に取材に行った際の回想に浸ったりします。そしてその合間に、ラジオのノイズのように「麦海」と思える文章の断片が散りばめらるのですが、書き手はそのことには一切触れません。その断片たちが、のちに麦海として編まれたとしたら、その物語はあくまで”内側”の世界ということになってしまいます。つまり、四部構成の幻の本がある…という”内側”の三月と同じ階層の物語に位置付けられることになるはずです。

書いててあまりに分かりにくいので、図にしてみました……けど、結局分かりにくいなぁ笑

クリックで大きくなります(一応)

……でも、麦海はその後に「黄昏の百合の骨」へと続いていき、今度の新刊も、理瀬の物語として続いていきます。それが全て、三月の”内側”と考えるのも無理があるように思うのです。

②もしくは、理瀬が全ての作者説も考えられます。
前述の通り、三月の”外側”の第四章「回転木馬」では、麦海の断片とも取れる文章が挿入されていますが、のちに麦海として再構築されるそれら断片…断章を描くことができるのは、全てを知っている理瀬だけ、なのでは?

ということで、麦海を書いたのも、そして”外側”の三月を書いたのも(=回転木馬の書き手)全て理瀬、とすれば、一応話は繋がるはずです。”内側”の三月第三部「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」で聖や黎二という名前の人物を登場させたのも、全ての真相にたどり着いた理瀬が、パラレルワールドとして用意したものだったと位置付けることができます。ああ、アイネクライネナハトムジーク、めちゃくちゃ読んでみたい…(鳴き声)

三月の解説で皆川博子先生(大好き!)が、”外側”の第四章「回転木馬」では恩田陸さん本人が投影されている珍しい文章、と語っておられたのがミスリードなのかもしれませんね。もしかすると皆川先生も共犯で、恩田さんの本当の狙い(のちに執筆する麦海の登場人物である理瀬が、三月の書き手でもある)を聞いた上で、読者を幻惑させるために、あんな解説を書かれたのかも…?と考えてみると、それはそれでワクワクします。

図にすると、こんな感じでしょうか。

……でもなあ、理瀬はとっても多忙な日々を送っているはずで、彼女の目標は父親を超えることだから、小説をいくつもいくつも書いている場合ではないはずなんですよね。ということで、これはわたしの理想の妄想としてそっと置いておくに留めます。

<麦海と三月が入れ子構造ではない場合で考える>

上記2つの仮説が、どちらもちょっと無理があるなと思ったので、消去法的にスターシステム説を採ることにしました。(本当は、理瀬が全ての作者説だったら嬉しい)

つまり、麦海と三月は直接の関係はなく、「回転木馬」の中で麦海の断章が挿入されたのは、恩田陸さんお得意の”予告編”で、麦海はその本編となること。
麦海の中で登場する「三月」はあくまで作中で語られる通り「校長の父が持っていた不思議な世界が登場する学園物語」あるいは「代々の学園の支配者が綴る学園の物語」でしかなく、その名前が別の作品では幻の本の名前として登場し(=スターシステム)、それを巡る短編集として恩田陸さんが出版したもの、と理解することも出来ます。
そして麦海は、独立した”理瀬シリーズ”として続いていく…

というのが、一番無理がないように思います。その場合、理瀬シリーズはあくまで「麦の海に沈む果実」「黄昏の百合の骨」そして新刊の「薔薇のなかの蛇」の三部作で、「睡蓮」と「水晶の夜、翡翠の朝」が外伝、「三月は深き紅の淵を」と「黒と茶の幻想」は関連作品、ということになると思います。

おまけ:読みたて感想書き散らし

以下、読み終わりたてホカホカの状態で書きなぐった部分をそっと載せておきます。

記事として読んでいただく方に伝えたいことがあまりに不明確なのだけど、わたしの沸騰したけど行き場のない気持ちの供養として、ネットの大海に流させていただきます合掌。
同じような、「行き場のないホカホカ」を抱えた方のみ読むことをおすすめします。(ニッチすぎるな…)

数年ぶりの再読、三月は深き紅の淵をと連続で読むことで、却って二作の関連の薄さをはっきり理解してしまったようで、少し寂しくもある。黎二はもうどこにもいなくて、密かに待ち望むアイネクライネナハトムジークも、作中作の幕間の夢なのだという実感。

三月の入れ子構造において、麦海につながる線は実際のところ弱々しい。第一章「待っている人々」の中で語られる“内側”の第三部「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」で“聖”と“黎二“という人物が登場すること。第四章「回転木馬」の中で、水野理瀬の物語が挿入されること。

後者はほとんど本作の予告編といってもいいかも知れない。パラレルワールドのようなもの。憂理が死に、黎二が生き残る世界線。「別の三月の国で」と憂理が叫んでいたことがその証左のように思える。

いつか「黒と茶の幻想」のように、「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」が素知らぬ顔で出版されないかしらと期待していたら、伊坂幸太郎さんが出しましたね。もちろん全く関係ない作品だけれど、当時少しドキドキしながら読んだ思い出があります。

わたしを含む本作のファンは、いずれ「三月は深き紅の淵を」と本作が繋がることを期待しているけど、公式も「理瀬シリーズ」と銘打った通り、あくまで本作は理瀬の物語であり、三月とは別物、別次元と考えた方がいいのかもしれない。本作の中に「三月」が登場するのは、手塚治虫のスターシステムのようなものなのかも。謎に包まれた、魅力的な“物語”の象徴としての。

寂しいけど……とっても寂しいけれども…(名残惜しさMAX。新刊「薔薇のなかの蛇」を読むまで、いや恩田さんが引退されるまで、諦めないけれど…)

2004年の文庫本(初版)が手元にあり、同じく2004年に刊行された「黄昏の百合の骨」の初版単行本が家にあるので、高校生だったわたしがすっかりこのシリーズにはまり込み、「黄昏」が発売されるのを心待ちにしていたことが思い起こされた。

実家には本を置くスペースがほとんどなく、また図書館や図書室で本を借りることが習慣化していたので、ハードカバーを自費で買うのは、当時のわたしにとって極めて珍しいことだったのです。

今思い出しても、印象的な場面がいくつもある。
麗子と功の失踪事件の謎解きや、校長のお茶会、「回転運動は、眩暈と恍惚をもたらす」……。

再読してみて、理瀬の不快と不安が迫り上がってくるが如く読み手の心になだれ込んでくることに驚いた。熱が出た時に見る悪い夢のような、伸びたり縮んだりする影のような、色褪せない不穏さ。

そして何回読んでもそれほど恐ろしいのに、どんなに不穏でも閉鎖的でも、通ってみたかった、こんな学校があるならと思わずにはいられない学園の魅力にも唸らされる。できれば自然に囲まれた場所で、緑の匂いを嗅ぎながらこの本に浸っていたかった。仕事に疲れた体で、日常の残滓の中で読み耽るのではなく、例えば旅先の車窓で読みたかった。そのほうが、本作の非日常感に浸れるように思う。

尖塔や“嘆きの壁”、薔薇の迷宮、森の中に佇む煉瓦造りの校長の家、モン・サン・ミシェルを想起させる元修道院の“青い丘”…。ドラマチックな舞台設定は、いつ読んでいてワクワクする。ぜひ映像化してほしいのだけど、なかなか国内では良いロケ地がないかもしれないな。

つらつらと感想を書いてみたけれど、本作には思い入れがありすぎて、客観的に魅力を語るのは難しいかもしれない。

「読んだことのない人には、中身には触れずに雰囲気だけで面白さを伝えたい。読んだことのある人には、その気持ち分かる!と共感していただけるような心の動きを伝えたい」というのが、わたしが読書感想を書く上でのモットーなのだけれど、こと本作においては、あまりに主観が強くなってしまうなあ。

理瀬の感傷は当時高校生だったわたしの鬱屈でもあり、(あたしは緩慢に壊れていく、というモノローグがぶっ刺さった)それでいてわたし自身とはかけ離れた強烈なヒロイン性に憧れもした。

そして黎二、彼の存在が……なんと言ったらいいのか……読むたびに理瀬の目を通して彼に出会い、理瀬の気持ちと同化するように自然と惹かれ、そして千切れるような別れを繰り返している気がしてきた。だって読むたびに毎回、黎二素敵だなと思うんだものな。毎度新鮮にそう思うから、なんかもう自分がタイムリープしてるんじゃないかという気すらしてきます。「また黎二を救えなかった」みたいな…笑

うーん、やっぱり主観が入りすぎて本作の魅力を説明出来ていないなあ。そう思いつつ黎二について語らせていただくと、彼に“墜ちた”女は無数にいると思う。それほどに魅力たっぷりで……ぶっきらぼうで、傷つきやすく、かと思えば女役でワルツを踊るような茶目っ気もあり、責任感が強く……そしてイケメンなのである。(真顔)

※聖やヨハン派も多数いらっしゃることと思います。憂理ファンの男性も多いことでしょう。校長過激派もいるかも。登場人物のキャラ立ちがすごいのだよな。

解説がことごとく「三月は深き紅の淵を」の説明(というか重大なネタバレ)になっているのはいただけなかったな。麦の海に沈む果実を読んだ読者は、ただ「三月は〜」という本が“実在”することだけ認識すればいいよ。そしたらもう、恩田さんの仕掛けた風呂敷に飛び込むしかない!という気持ちになるから。

黎二だいすきです。当時高校生だったわたしにとって、理瀬と黎二は特別でした。

黎二みたいなぶっきらぼうなキャラクターが大好きなので、ぶっきらボーイというタグを作ってみました。彼のような不器用な優しさを持つキャラクターたちをタグ付けしていくんだ(決意)